翌朝。
「オーイ、朝飯作ったから来いよ」
階段の下から響く翼の声に誘われ1階のリビングへ降りた。
「お邪魔します」
うわー、美味しそうなフレンチトースト。
「どうぞ」
「いただきます」うーん美味しい。
翼が作る料理って、本当に美味しい。 別に料理上手ってわけでもないのに、味や食感、火の通し加減がちょうどいい。 私が同じように作ってもどこか違うのは何でだろうって、よく考える。 そこでたどり着いた結論は、翼ってきっと舌が優秀なんだ。 それは才能とかじゃなくて、小さい頃から本当に美味しいものを食べてきたって事。 その料理に対する理想型を知っているから、それに近づけられる。 だから、翼の料理は美味しいのだ。「昨日、旦那早く帰ったな」
「あ、うん」一緒に住んでいれば当然気が付くことだろうから、今更誤魔化してもしょうがない。
「呼び出し?」
「違う。喧嘩した」 「お前がまたわがまま言ったんだろう」やっぱりそう思うのか。
まあ、事実だけれど。ん?
翼がジッと私を見つめている。「何よ」
「・・・別に」 「はっきり言いなさい。翼らしくないわよ」何か言いたいって、顔に書いてあるのに。
「お前、何も聞いてないのか?」
「だから、何を」 つい、声が大きくなった。「紅羽」
哀れむような翼の視線。な、何なのよ。
「異動の話が、出てる」
え?
「それって・・・・公?」
「ああ」うそ、嘘よ。
私、何も、聞いてない。***
「フフフ。私ってよっぽど性悪だと思われているのかなあ」
だから、何も言わないのかなあ?と自虐的に笑ってみた。
「裏表がなくてわかりやすい性格はお前らしいけど、人間そんなの真っ直ぐは生きられないんだ」
そんなこと、
喧嘩別れしてしまった日から、公は忙しくなり連絡も途絶えがちになった。気にはなりながら、私も何も言わなかった。「おはよう」病棟センターに顔を出した私に、夏美が寄ってきた。「夏美、おはよう」「今日、抜糸だよね」「うん。これでやっと自由になれる」たった10日間だったけれど、凄く不便だった。これでやっと日常生活に戻れると思うと、やはりうれしい。「嫌がらせの犯人はまだ?」「うん」おそらく捕まらないまま終わる気がする。実際、事件以降は何も起きていない。「このまま忘れ去られると思うわ」私は別にそれでもいい。「抜糸が終われば、お酒も解禁でしょ?近いうち、みんなで飲みましょう」「そうね」「最近、総合内科に行った同期が凄く落ち込んでいるから」「なんで、何かあったの?」総合内科は体全身を見る科で、公もいるところだ。部長もいい人だし、問題ないはずだけれど。「来月から3ヶ月の予定で宮城先生が不在になるじゃない、そのせいで仕事が増えるらしいわ」「へー」結局公は、まず3カ月間の出張として向こうへ行ってその後正式に赴任の辞令が出るらしい。なんて、これもすべて翼から聞いた。公は何も話してはくれない。そして、今まで3日に一度は顔を出していた公が、家に来なくなった。もちろん、色々と忙しいのは分っているし、そのことに文句を言うつもりはない。毎晩、『今日も変わりなかったか?早く寝ろ』ってメッセージは変わらずやってくる。それに対して、『今日も変わりなかったわ』としか返さない私がいる。***「本当に、お前達は面倒くさいなあ」たまたま呼ばれた救急外来で、翼が話しかけてきた。「仕方ないじゃない」この性格は今更どうにもならない。「話しはしたのか?」「うん。昨日の夜」さすがに平日の月から金で診療所に
それから1ヶ月。公も診療所が忙しいらしく、連絡も途絶えがちになった。私の方も忙しさに追われていた。そんなとき、偶然公が言っている診療所からドクヘリの要請があった。患者は子供で、受け入れのため私が飛んだ。「お疲れ様です」ヘリが降りると同時にやって来たのは、診療所の看護師。その先に、ストレッチャーに乗せられた子供と公の姿。「お疲れ様です」私は駆け足で近づいた。そう言えば、随分久しぶりに公を見た気がする。「ああ、お疲れ様。患者は6歳男児。鉄棒から落ちて、頭部と頸椎を打っている。今のところバイタルは安定。意識もある」「わかりました。うちに搬送します」「お願いします」頭部を打ったとなると、脳外ね。頸椎は整形。「うぅーん」患者の苦しそうな声。6歳の子供が、鳴き声も上げずにいるって事は本当に苦しいんだと思う。早く、病院に連れて帰らないと。「じゃあ、これが紹介状と処方歴です。よろしくお願いします」「はい」久しぶりに間近で見る公。ちょっと焼けてる?往診のもあるって聞くから、外に出ることも多いのね。ん?何、横の看護師がやけに親しげだ。そういえば、翼が言っていたっけ、「旦那、向こうで女と暮らしてるらしいぞ。うちのドクターが行ったとき見たって」その時は、ふーんとしか思わなかったけれど、案外本当だったりして。・・・馬鹿。何ヤキモチ焼いてるのよ私。「山形先生、離陸します。お願いします」「はい」1人妄想に浸っていた私は、フライトナースの声で我に返った。***「あれ、脳外は?」ドクヘリの中から連絡しておいたのに、病院で待っていたのは翼と整形の先生だった。「脳外は今、オペ中。まずはこっちで見るから」「えぇ―」別に翼が不満なわけではないけれど、脳外に診て欲しかっ
その日の夕方。ちょうど帰ろうかと思ったタイミングで、翼からのメッセージが届いた。「飯行くか?」私は迷うことなく了解のスタンプを返した。色々言いながら、それでも気にかけてくれる翼が本当にありがたい。軟派なくせに良い奴なんだから。「オー、紅羽」病院を出ようと通用口まで来たところで、私に向かって手を振る翼が見えた。随分目立つことするじゃないかと思っていると、チラチラと感じる周囲からの視線。ん?遠くの方で、ジーッとこちらを見ている女の子。ああ、そういうことか。結局また、翼の女の子避けに利用されてしまったらしい。仕方ないから、今日はたくさん食べさせていただきましょう。***向かったのはいつもの大衆居酒屋。炭水化物嫌いな私にとって、食べられるメニュ-の多い幸せな夕食。その相手が気兼ねない翼なら文句はない。さー、食べるぞ。まずはビールで乾杯して、唐揚げ、サラダ、肉じゃがと、串揚げも。結構高カロリーに頼んでしまった。「お前って、本当わかりやすいよな」「何が?」「食欲がストレスと比例してる」「どういう意味?」「イライラしてるときは高カロリーな物を欲しがるし、そうでないときは割とあっさりした物を注文する。誰が見てもわかるよ」それは、えっと・・・単純だと言われているんだよね。「悪かったわね」良くも悪くも私の性格を知り尽くしいる翼に、今更何を隠すつもりもないけれど、この上から目線にはカチンとくる。そりゃあ、翼は欠点のない完璧王子ですものね。「で、お前はどうするの?」「何よ、いきなり」「3ヶ月の出張が終わったら、旦那に異動の辞令が出るぞ」そりゃあ、そうよね。それ前提での長期出張でしょうから。「ついて行かないのか?」「そんなの、行けるわけない」翼だって分ってるはず。
ん、んんー。まぶしい。それに、頭が痛い。え?えっと・・・ここは自宅の・・リビング。そうか、昨日は翼と飲みに出たんだった。うーん。窓からの朝日が・・・溶けてしまいそう。それに、リビングのソファーで寝たせいか体が痛い。「おーい、大丈夫か?」階段下から翼の声。「ぅーん、頭が痛い」「紅羽ー、8時過ぎてるぞー」え。ええ。ヤバイ、遅刻する。急がないと。体を起こし、顔を洗って、化粧は向こうに着いてからでもいいから。カバンに携帯と財布、後は・・・ハンカチ。それだけあればとりあえず大丈夫。ん?携帯に着信。それも十件以上。すべて公から。どうしたんだろう。***ブブブ。また公からの着信。「もしもーし」『お前、今どこ?』抑揚のない公の声。機嫌は良くないみたいね。「どこって、家よ」『自分の部屋?』「当たり前でしょ」他にどこがあるのよ。もー、この忙しいときに何なの。『昨日、何時に帰った?』「えーっと」覚えてない。と言えば、怒るね。『お前さあ、もう少し慎重に行動しろ。酔っ払ってどうやって帰ったかの記憶もないなんて、最悪だぞ』いきなり説教に自分の体調の悪さも手伝って、朝からプチンと切れてしまった。「何で?たまに飲みに出ただけでしょ。悪いの?」『ああ悪い。どこで誰が見ているかわからないんだから。自制しろ』はー、意味がわからない。自分は好きなことしてるくせに。あっ、やだ、もう8時半。「とにかく、昨日は翼と飲みに出ました。着信に気づかなかったのはごめんなさい。でも、公が何を怒っているのかわからない」『お前・・・』
ある日の午後、なかなか検査の順番が来ない赤ちゃんに部長が苛立っている。「山形先生。ちゃんと検査室に連絡してますか?」 「はい」言われなくたって何度もしてる。 でも、急患で検査室も手一杯みたい。「いつまで待たせるんだよ。やることしろよっ」近くにいる私にしか聞こえない音量でぼやく部長。 おかげで、私の気分も最悪だ。 私はいったい何のためにここにいるんだろう。 最近、本気でここから逃げ出したくなる。先日、公の異動が正式発表になった。 地元からの強い要望があったと噂で聞いたが、結局公からは何も聞かされなかった。 辞令の執行は1ヶ月後。 それまでは、このまま長期出張として現地で勤務するらしい。そして、ここ半月公から私への連絡は完全に途絶えたまま。 かわいくない私は、自分から連絡することもしなかった。 いらだちと不安で、一人悶々とする日々。 追い打ちをかけるように、『宮城先生が退職するらしい』と耳にした。 噂にしてはタイムリー過ぎて笑い飛ばすことのできない状況に、さすがに不安になって公に電話をしてみたけれど、タイミングが悪かったようでつながらなかった。 けれど、きっとそのうち折り返しの電話がかかってくると思っていた。 しかし、いくら待っても電話はないまま時間だけが過ぎていった。。 今でも私は公の彼女のつもりだが、公は違ったらしい。 考えてみれば、私は公に何もしてあげていないし、こんなに大変な時期に優しい言葉をかけることもできなかった。 本当にかわいくない女だ。 公はこれからどうする気だろう。 公の人生に私は含まれていないんだろうか。***数日後。 我慢の限界を迎えた私は、有休を取った。 今まで仮病で休んだことなんてなかったのに、『すみません、風邪で休みます』と嘘をついてしまった。 そして、私が向かったのは山の中の診療所。 ガタガタの田舎道。 緑深い山里。
10分ほど待って、「山形さーん」と診察室へ呼ばれた。「どうぞ」声をかけた公が、パソコンから顔を上げこちらを向いた瞬間に驚いた顔をした。久しぶりに公の顔を見た私はうれしくて、微笑んでしまった。なんだかとても元気そう。痩せた様子もないし、着ている服も綺麗にアイロンがかけられていて、清潔感がある。自分でしたのかなあ、それとも・・・「どうしました?」「ええ?」私に気づいたはずの公が、発した言葉に今度は私が驚いた。「今日はどうされました?」どうやら公は、医者と患者で通す気らしい。それなら私も、付き合います。「最近胃の調子が悪くて・・・」「痛みがありますか?」「はい」「それは、空腹時?」「うーん、気がつけばって感じなので・・・」「どの辺りが痛みますか?」「えーっと、この辺?」胃の辺りをさすってみた。「食事はとれていますか?」「はい」ところでこの小芝居、いつまで続ける気だろうか?もしかして、公は怒ってる?だんだん不安になってきた。***「便通は?」さすがに恥ずかしくて言葉に詰まった。「うんちです」再度たずねてくる公。分っています。「大丈夫です」精一杯答えたのに、「毎日ありますか?」許してはくれないらしい。あー、恥ずかしい。「便通は毎日ありますか?」まるで日本語がわからない患者を相手にするように、繰り返す公。ひょっとして、いじめて楽しんでいるんだろうか?「2日に一度くらいです」こうなったら根比べとばかり、私も開き直った。「生理は?」「はぁ?」「最後はいつでした?」「・・・先月の頭です」「遅れてますか?」「元々不順なので」
「カンパーイ」 盛り上がる店内。ここは最近評判のレストラン。 なかなか予約が取れないって噂なのに、誰かがコネを使ったのね。「おーい、ビールおかわり」 「こっちはハイボール」 「すいませーん、注文お願いしまーす」色んな所から声が上がる「はーい、お待ちください」店員さんも忙しそう。 そんな中、相変わらず大騒ぎしている若者達は一気飲みや訳のわからないゲームまで。 パッと見は、大学生にしか見えないけれど・・・「これでも医者なのよねー」 「あんたもね」すぐ隣から呆れた声が聞こえてきたから、私も次々とグラスを空けている隣の美女、夏美に突っ込みを入れた。「そういう紅羽(くれは)も、顔が真っ赤よ」自分は全く顔に出さないからって、夏美が笑ってる。「夏美とは違うの。一体どれだけ強いの」私だってお酒が弱い方ではないけれど、夏美が強すぎるのだ。 勤務後、夕方7時から始まった飲み会はすでに2時間以上がたち、みんなそれなりに酔っ払ってきている。 当然、私も夏美もかなり飲んでいるのだが・・・。***私、山形紅羽(やまがたくれは)は27歳の小児科医。 この春やっと研修医の肩書きがとれて、医師として歩き出したばかり。 今日は同じ大学の同期で、付属病院に就職したメンバーとの飲み会。 夏美は大学の同期で、私と同じ小児科医。 本当はお金持ち開業医の娘なのに、チョー現実主義者。 今だって、「もったいないから、ほら飲みなさい」と、良い所のお嬢さんとは思えない発言を繰り返している。「ほんと、黙っていれば美人なのにね」 「紅羽、やかましい」あら、聞こえてた。「こら紅羽、飲み過ぎだぞ」今度は、どこからともなく現れた翼が注意する。「はいはい、分ってます」福井翼(ふくいつばさ)は大学からの同期。 同じ病院の救命医として勤務している。 見た目は雑誌から飛び出てきたような、THE王子様。 顔が良くて、頭が良く、それで性格の良い奴ならモテないはずがない訳で、当然のように学生時代からかわいそうなくらい目立っていた。「飲み過ぎるなよ。介抱なんてごめんだからな」 耳元に口を寄せ、翼が小声でささやく。ッたく、不必要なまでにいい男。 ここまでくると、嫌みよね。「分っているわよ。自分の足でちゃんと帰ります。ご心配な
「ただいま」家に帰り、自分の部屋のリビングで、ソファーに倒れ込む。「おーい、酔い覚まし飲めよ」 玄関から翼の声がする。「はーい」私は冷蔵庫から翼のお母さんが送ってくれた漢方を取り出した。 うわー、これ苦手なのよね。 でも、明日の勤務のことを考えれば、ありがたいと思っていただきます。ゴックン。 うわ、やっぱり苦っ。「なあ紅羽、お前明日日勤だろー」またまた階段下から大きな声。 ッたく、うるさい。 でも、勝手に入ってこないのが翼だ。 あくまでもシェアハウスなんだから、必要以上に干渉したりはしない。「そうよ。だから寝るの」 「母さんがパンを買ってきてるから、食えよ」へ?言われてドアを開け、2階に上がったところにある踊り場スペースを見ると、紙袋にぎっしり入ったパンが置かれていた。「ありがとう、いただきます。お母さんにお礼言ってね」 「ああ、おやすみ」 「おやすみなさい」いつもありがとうございます。 お母さんは誰が食べているか知らないんだろうけれど・・・ 申し訳ないようで、とってもありがたい。***世間では、とは言っても同期や仲のいい友人の親しいごく一部だけれど、私たちが付き合っていると思っている。 飲み会も一緒に出かけるし、仕事で困ったときにはやはり翼に相談してしまうから、周囲から見れば私たちは恋人同士に見えるんだろう。 でも、違うんだなあ。 本当は、翼の女よけ。それだけの存在でしかない。 世間の常識的にこの関係が正しいのかどうかは別にして、私も翼も今の状態に満足している。 でなければ、大学時代から数えて7年もこんな生活を続けたりはしない。うーん、午後11時か。 ほどよく回ったお酒が気持ちいい。 これで明日が元気なら文句無しなんだけれど・・・ピコン 『ちゃんと帰ったか?』 それは毎日この時間にやってくるメッセージ。 私はイエスのスタンプを返信した。『明日勤務だろ、早く寝るんだぞ』 『分っています』 『ならいい。おやすみ』 『おやすみなさい』これが、毎晩の日課。 実は私には、付き合って2年になる彼がいるのだ。
10分ほど待って、「山形さーん」と診察室へ呼ばれた。「どうぞ」声をかけた公が、パソコンから顔を上げこちらを向いた瞬間に驚いた顔をした。久しぶりに公の顔を見た私はうれしくて、微笑んでしまった。なんだかとても元気そう。痩せた様子もないし、着ている服も綺麗にアイロンがかけられていて、清潔感がある。自分でしたのかなあ、それとも・・・「どうしました?」「ええ?」私に気づいたはずの公が、発した言葉に今度は私が驚いた。「今日はどうされました?」どうやら公は、医者と患者で通す気らしい。それなら私も、付き合います。「最近胃の調子が悪くて・・・」「痛みがありますか?」「はい」「それは、空腹時?」「うーん、気がつけばって感じなので・・・」「どの辺りが痛みますか?」「えーっと、この辺?」胃の辺りをさすってみた。「食事はとれていますか?」「はい」ところでこの小芝居、いつまで続ける気だろうか?もしかして、公は怒ってる?だんだん不安になってきた。***「便通は?」さすがに恥ずかしくて言葉に詰まった。「うんちです」再度たずねてくる公。分っています。「大丈夫です」精一杯答えたのに、「毎日ありますか?」許してはくれないらしい。あー、恥ずかしい。「便通は毎日ありますか?」まるで日本語がわからない患者を相手にするように、繰り返す公。ひょっとして、いじめて楽しんでいるんだろうか?「2日に一度くらいです」こうなったら根比べとばかり、私も開き直った。「生理は?」「はぁ?」「最後はいつでした?」「・・・先月の頭です」「遅れてますか?」「元々不順なので」
ある日の午後、なかなか検査の順番が来ない赤ちゃんに部長が苛立っている。「山形先生。ちゃんと検査室に連絡してますか?」 「はい」言われなくたって何度もしてる。 でも、急患で検査室も手一杯みたい。「いつまで待たせるんだよ。やることしろよっ」近くにいる私にしか聞こえない音量でぼやく部長。 おかげで、私の気分も最悪だ。 私はいったい何のためにここにいるんだろう。 最近、本気でここから逃げ出したくなる。先日、公の異動が正式発表になった。 地元からの強い要望があったと噂で聞いたが、結局公からは何も聞かされなかった。 辞令の執行は1ヶ月後。 それまでは、このまま長期出張として現地で勤務するらしい。そして、ここ半月公から私への連絡は完全に途絶えたまま。 かわいくない私は、自分から連絡することもしなかった。 いらだちと不安で、一人悶々とする日々。 追い打ちをかけるように、『宮城先生が退職するらしい』と耳にした。 噂にしてはタイムリー過ぎて笑い飛ばすことのできない状況に、さすがに不安になって公に電話をしてみたけれど、タイミングが悪かったようでつながらなかった。 けれど、きっとそのうち折り返しの電話がかかってくると思っていた。 しかし、いくら待っても電話はないまま時間だけが過ぎていった。。 今でも私は公の彼女のつもりだが、公は違ったらしい。 考えてみれば、私は公に何もしてあげていないし、こんなに大変な時期に優しい言葉をかけることもできなかった。 本当にかわいくない女だ。 公はこれからどうする気だろう。 公の人生に私は含まれていないんだろうか。***数日後。 我慢の限界を迎えた私は、有休を取った。 今まで仮病で休んだことなんてなかったのに、『すみません、風邪で休みます』と嘘をついてしまった。 そして、私が向かったのは山の中の診療所。 ガタガタの田舎道。 緑深い山里。
ん、んんー。まぶしい。それに、頭が痛い。え?えっと・・・ここは自宅の・・リビング。そうか、昨日は翼と飲みに出たんだった。うーん。窓からの朝日が・・・溶けてしまいそう。それに、リビングのソファーで寝たせいか体が痛い。「おーい、大丈夫か?」階段下から翼の声。「ぅーん、頭が痛い」「紅羽ー、8時過ぎてるぞー」え。ええ。ヤバイ、遅刻する。急がないと。体を起こし、顔を洗って、化粧は向こうに着いてからでもいいから。カバンに携帯と財布、後は・・・ハンカチ。それだけあればとりあえず大丈夫。ん?携帯に着信。それも十件以上。すべて公から。どうしたんだろう。***ブブブ。また公からの着信。「もしもーし」『お前、今どこ?』抑揚のない公の声。機嫌は良くないみたいね。「どこって、家よ」『自分の部屋?』「当たり前でしょ」他にどこがあるのよ。もー、この忙しいときに何なの。『昨日、何時に帰った?』「えーっと」覚えてない。と言えば、怒るね。『お前さあ、もう少し慎重に行動しろ。酔っ払ってどうやって帰ったかの記憶もないなんて、最悪だぞ』いきなり説教に自分の体調の悪さも手伝って、朝からプチンと切れてしまった。「何で?たまに飲みに出ただけでしょ。悪いの?」『ああ悪い。どこで誰が見ているかわからないんだから。自制しろ』はー、意味がわからない。自分は好きなことしてるくせに。あっ、やだ、もう8時半。「とにかく、昨日は翼と飲みに出ました。着信に気づかなかったのはごめんなさい。でも、公が何を怒っているのかわからない」『お前・・・』
その日の夕方。ちょうど帰ろうかと思ったタイミングで、翼からのメッセージが届いた。「飯行くか?」私は迷うことなく了解のスタンプを返した。色々言いながら、それでも気にかけてくれる翼が本当にありがたい。軟派なくせに良い奴なんだから。「オー、紅羽」病院を出ようと通用口まで来たところで、私に向かって手を振る翼が見えた。随分目立つことするじゃないかと思っていると、チラチラと感じる周囲からの視線。ん?遠くの方で、ジーッとこちらを見ている女の子。ああ、そういうことか。結局また、翼の女の子避けに利用されてしまったらしい。仕方ないから、今日はたくさん食べさせていただきましょう。***向かったのはいつもの大衆居酒屋。炭水化物嫌いな私にとって、食べられるメニュ-の多い幸せな夕食。その相手が気兼ねない翼なら文句はない。さー、食べるぞ。まずはビールで乾杯して、唐揚げ、サラダ、肉じゃがと、串揚げも。結構高カロリーに頼んでしまった。「お前って、本当わかりやすいよな」「何が?」「食欲がストレスと比例してる」「どういう意味?」「イライラしてるときは高カロリーな物を欲しがるし、そうでないときは割とあっさりした物を注文する。誰が見てもわかるよ」それは、えっと・・・単純だと言われているんだよね。「悪かったわね」良くも悪くも私の性格を知り尽くしいる翼に、今更何を隠すつもりもないけれど、この上から目線にはカチンとくる。そりゃあ、翼は欠点のない完璧王子ですものね。「で、お前はどうするの?」「何よ、いきなり」「3ヶ月の出張が終わったら、旦那に異動の辞令が出るぞ」そりゃあ、そうよね。それ前提での長期出張でしょうから。「ついて行かないのか?」「そんなの、行けるわけない」翼だって分ってるはず。
それから1ヶ月。公も診療所が忙しいらしく、連絡も途絶えがちになった。私の方も忙しさに追われていた。そんなとき、偶然公が言っている診療所からドクヘリの要請があった。患者は子供で、受け入れのため私が飛んだ。「お疲れ様です」ヘリが降りると同時にやって来たのは、診療所の看護師。その先に、ストレッチャーに乗せられた子供と公の姿。「お疲れ様です」私は駆け足で近づいた。そう言えば、随分久しぶりに公を見た気がする。「ああ、お疲れ様。患者は6歳男児。鉄棒から落ちて、頭部と頸椎を打っている。今のところバイタルは安定。意識もある」「わかりました。うちに搬送します」「お願いします」頭部を打ったとなると、脳外ね。頸椎は整形。「うぅーん」患者の苦しそうな声。6歳の子供が、鳴き声も上げずにいるって事は本当に苦しいんだと思う。早く、病院に連れて帰らないと。「じゃあ、これが紹介状と処方歴です。よろしくお願いします」「はい」久しぶりに間近で見る公。ちょっと焼けてる?往診のもあるって聞くから、外に出ることも多いのね。ん?何、横の看護師がやけに親しげだ。そういえば、翼が言っていたっけ、「旦那、向こうで女と暮らしてるらしいぞ。うちのドクターが行ったとき見たって」その時は、ふーんとしか思わなかったけれど、案外本当だったりして。・・・馬鹿。何ヤキモチ焼いてるのよ私。「山形先生、離陸します。お願いします」「はい」1人妄想に浸っていた私は、フライトナースの声で我に返った。***「あれ、脳外は?」ドクヘリの中から連絡しておいたのに、病院で待っていたのは翼と整形の先生だった。「脳外は今、オペ中。まずはこっちで見るから」「えぇ―」別に翼が不満なわけではないけれど、脳外に診て欲しかっ
喧嘩別れしてしまった日から、公は忙しくなり連絡も途絶えがちになった。気にはなりながら、私も何も言わなかった。「おはよう」病棟センターに顔を出した私に、夏美が寄ってきた。「夏美、おはよう」「今日、抜糸だよね」「うん。これでやっと自由になれる」たった10日間だったけれど、凄く不便だった。これでやっと日常生活に戻れると思うと、やはりうれしい。「嫌がらせの犯人はまだ?」「うん」おそらく捕まらないまま終わる気がする。実際、事件以降は何も起きていない。「このまま忘れ去られると思うわ」私は別にそれでもいい。「抜糸が終われば、お酒も解禁でしょ?近いうち、みんなで飲みましょう」「そうね」「最近、総合内科に行った同期が凄く落ち込んでいるから」「なんで、何かあったの?」総合内科は体全身を見る科で、公もいるところだ。部長もいい人だし、問題ないはずだけれど。「来月から3ヶ月の予定で宮城先生が不在になるじゃない、そのせいで仕事が増えるらしいわ」「へー」結局公は、まず3カ月間の出張として向こうへ行ってその後正式に赴任の辞令が出るらしい。なんて、これもすべて翼から聞いた。公は何も話してはくれない。そして、今まで3日に一度は顔を出していた公が、家に来なくなった。もちろん、色々と忙しいのは分っているし、そのことに文句を言うつもりはない。毎晩、『今日も変わりなかったか?早く寝ろ』ってメッセージは変わらずやってくる。それに対して、『今日も変わりなかったわ』としか返さない私がいる。***「本当に、お前達は面倒くさいなあ」たまたま呼ばれた救急外来で、翼が話しかけてきた。「仕方ないじゃない」この性格は今更どうにもならない。「話しはしたのか?」「うん。昨日の夜」さすがに平日の月から金で診療所に
翌朝。「オーイ、朝飯作ったから来いよ」階段の下から響く翼の声に誘われ1階のリビングへ降りた。「お邪魔します」うわー、美味しそうなフレンチトースト。「どうぞ」 「いただきます」うーん美味しい。 翼が作る料理って、本当に美味しい。 別に料理上手ってわけでもないのに、味や食感、火の通し加減がちょうどいい。 私が同じように作ってもどこか違うのは何でだろうって、よく考える。 そこでたどり着いた結論は、翼ってきっと舌が優秀なんだ。 それは才能とかじゃなくて、小さい頃から本当に美味しいものを食べてきたって事。 その料理に対する理想型を知っているから、それに近づけられる。 だから、翼の料理は美味しいのだ。「昨日、旦那早く帰ったな」 「あ、うん」一緒に住んでいれば当然気が付くことだろうから、今更誤魔化してもしょうがない。「呼び出し?」 「違う。喧嘩した」 「お前がまたわがまま言ったんだろう」やっぱりそう思うのか。 まあ、事実だけれど。ん? 翼がジッと私を見つめている。「何よ」 「・・・別に」 「はっきり言いなさい。翼らしくないわよ」何か言いたいって、顔に書いてあるのに。「お前、何も聞いてないのか?」 「だから、何を」 つい、声が大きくなった。「紅羽」 哀れむような翼の視線。な、何なのよ。「異動の話が、出てる」え?「それって・・・・公?」 「ああ」うそ、嘘よ。 私、何も、聞いてない。***「フフフ。私ってよっぽど性悪だと思われているのかなあ」だから、何も言わないのかなあ?と自虐的に笑ってみた。「裏表がなくてわかりやすい性格はお前らしいけど、人間そんなの真っ直ぐは生きられないんだ」そんなこと、
事件から1日休んで、私は仕事に戻った。犯人が捕まったとは言えきっと大騒ぎになっているだろうと思っていたけれど、案外そうでもなくて逆に驚いたし、救命部長が箝口令を敷いたらしいと聞かされてさすがと納得もした。 それに対してうちの部長はただ文句を言い続けている。「人騒がせな奴だなあ。大体、病院の備品なんてこれ見よがしに持ってるからこんなことになるんだよ。昨日休んだ分、今日は働いてください」 「はい」 できるだけ表情を崩さず、返事だけする。この人、なんとかならないのかしら。 小児科医としては優秀らしいけれど、人間としては・・・最悪。 特に私には敵対心丸出しで、優しい救命部長とは大違い。 どうせなら部長が刺されれば良かったのに。「紅羽、顔が怖いわよ。子供が泣くわ」 隣にいた夏美の呟き。フン。 怒りたくもなるわよ。 今だって、昨日休んだペナルティーって口実で週末の勤務を入れようとしている。「そんな顔するから、余計に言われるのよ」 「分ってます」 「じゃあ、直しなさい」 うっ。 それができないから困っているんじゃない。ブー、ブー、ブー。鳴り響くホットライン。「はい。NICUです。はい。はい。わかりました、向かいます」 どうやら、ドクターカーの出動要請だ。***「私行きます」 この場から逃出したくて、手を上げた。「山形先生はいい。ケガしてたんじゃあ仕事にならん」 「大丈夫です。行けます」さらに声を大きくしてみたが、部長は取り合ってもくれない。 「山形先生は待機。山田先生向かってください」結局、先輩ドクターが行くことになった。 本当に嫌な部長。 きっと春の歓迎会で手を握ろうとしたところを『セクハラで訴えますよ』なんて言ったからだろうな。 お酒の席なんだからって、その後みんなにも注意されたし。 はーぁ、本当に困ったものだわ。
「消毒に来たぞ」階段から翼の声がする。ドアを開けると、消毒とガーゼと包帯を持った翼が立っていた。「大丈夫だよ。1人で」 「できないだろ。利き腕だぞ」アハ、そうでした。私は、おとなしく右腕を差し出した。「痛っ」まだ消毒がしみる。「ねえ、優しくしてよ」「少し我慢しろ」わざわざ手当てをしに来てくれているのにどんな言いぐさだと思うけれど、翼の前では本音が出てしまうし、翼は翼で病院で見せるような優しさはない。 でも、これが気兼ねなくいられる理由だ。「なあ」ん? 呼ばれて顔を上げると、真面目な顔をした翼がいた。「何よ」 「犯人、捕まったらしい」へ?「随分早いのね」 「20歳の浪人生だって」 「へえー」翼の話によると、犯人は近くに住む2浪中の男の子。 医学部受験を目指していて、そのストレスから衝動的に犯行に及んだらしい。「お前、病院の袋に資料入れて持ち歩いていただろう?」 「うん」ちょうどいいサイズだったし、病院にはいくらでもあるし。 便利に使っていた。「それを見て、病院のスタッフだと思ったんだと」ふーん。 まあ、とんだ逆恨みって事ね。 でも、待って「じゃあ、あの張り紙は?」 「別人らしい」そんな・・・「とにかく、もうしばらくはおとなしくしているんだな」 「うん。痛っ」翼がピンセットで縫合した部分を触るから、つい声が出てしまった。「何かあれば、すぐに言うんだぞ」 「分ってるって」 「本当か?」 翼は怪しいなって目をしてる。ったく、どこまで信用がないのよ。「なあ」 ちょっと真面目な顔をした翼。 「何よ」 「もし、俺のファンだったらごめん」